博物館を旅行コースに組み入れることには賛否両論あるかと思います。博物館見学というとどうしても固いイメージがあり、中には拒否反応をしめす人もいます。博物館のテーマに興味ある人にとっては充実した2時間であっても、興味の無い人にとっては退屈極まりない時間になりかねません。
今回紹介する川の博物館は、テーマを「川」に限定した博物館です。この時点で、川に興味無い人にとっては悪い予感しかしないでしょう。しかし実際は旅行コースに入れた場合、最も評判の良い博物館の一つです。
川の博物館は、テーマを「川」に限定しているのはもちろんですが、その川のほとんどは埼玉県の広い地域に渡り流れる荒川水系の川とその文化についてです。そこでは埼玉県独自の文化や自然を理解することができます。それらに興味のある人、埼玉県在住の人にとっては普通に楽しめる展示内容です。しかし、展示内容に全く興味無い人であっても、少なくとも博物館にありがちな全ての展示物をスルーしてしまうということだけは無いと保証します。
近年、各地の博物館、特に国立・県立などの大型博物館は見せる工夫が見られるようになりました。誤解を恐れずに例えると、旧来型の博物館をデパートだとすると、新しい博物館はアウトレットモールや大型ショッピングセンターなどに例えられます。川の博物館はいずれでもなく、小売店で例えるならドン・キホーテでしょう。これ以上説明はしませんが、だいたいの雰囲気はわかってもらえるでしょうか。
埼玉県立 川の博物館は一言でいうと、異形の博物館という言葉がしっくりきます。異形(いぎょう)とは辞書で調べると「普通とは違った怪しい姿・形をしていること」などと書かれています。また妖怪のことを異形と表現することもあることから、異形とは単に珍しい形をしているということだけではなく、その裏で怨念めいたものによって、怪しく変形したという意味が隠されているようです。実際に博物館を訪れてみると、そのようなマイナスイメージは全く感じさせず、反対にファミリー向けの明るく楽しい博物館という第一印象を持つ方が多いのではないでしょうか。埼玉県立 川の博物館を上記のような意味で異形と表現するのは反対意見のほうが圧倒的に多いでしょう。しかし、この表現を否定する人であっても、この博物館が普通の博物館でないということには賛同していただけると思います。
このような話をしても、「埼玉県立 川の博物館」がどのような博物館かご存じ無い方にはピンとこないと思います。まず次節で埼玉県立 川の博物館の全体像から見ていきましょう。
埼玉県立 川の博物館の全体像
名称:埼玉県立 川の博物館(さいたまけんりつ かわのはくぶつかん)
住所:埼玉県大里郡寄居町小園39
入場料:一般410円 学生200円 中学生以下無料
荒川わくわくランド料金:大人(高校生以上)210円 小人(中学生以下)100円
アドベンチャーシアター料金:大人(高校生以上)430円 小人(中学生以下)210円
駐車場料金:普通車300円
定休日:月曜日(休日・夏休みは除く)、年末年始(12/29~1/3)
営業時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)※例外日もあり
川の博物館設立の経緯
埼玉県立 川の博物館は埼玉県大里郡寄居町に平成9年に開館した博物館です。各県の代表的な博物館の多くは昭和に開館したものが多く、平成9年開館というのは埼玉県の県立博物館では最も新しく、全国的にも新しい部類に入ります。平成5年に東京の江戸東京博物館、平成7年に神奈川県の地球博物館と千葉県の関宿城博物館といった、いずれも特徴的な博物館がオープンしましたので、その一連の流れでオープンしたような錯覚をおこしていましたが、それは全く違っていました。川の博物館開館の経緯は昭和58年に遡るそうです。
昭和58年から5年間かけて、多くの専門家が結集し荒川の総合調査が行われました。4冊もの報告書が刊行され、それらは水質や地形などの科学的な調査だけではなく、歴史、文化等も含め、それらの研究者を一堂に集めた規格外の大調査でした。一本の川に関する調査をなぜこの時期に、しかもこれほど大々的に行われたのか、これは推測するしかないのですが、昭和62年に国土交通省に始めたスーパー堤防事業が関係しているのではないかと思います。スーパー堤防は民主党の仕分けの対象にあがったことでニュースにもなりましたが、近年稀にみる国家的な大事業です。スーパー堤防の下準備として荒川の研究をするというのは非常に理にかなっています。
荒川は名前の通り、古代から中世まで川の氾濫による被害が非常に多い川でした。江戸時代の治水技術により川の流れを変え、防波堤をつくることによって関東平野の未開の土地を肥沃な農地へと転換していったという歴史があるのです。江戸時代に行われた荒川の治水は、日本の歴史上最大級の治水といっても良いでしょう。スーパー堤防という大事業を行うにあたり、荒川の研究は何よりも先立つべき通過点でした。荒川は埼玉県秩父市の甲武信ヶ岳を源流として東京湾にそそぐ長さ173kmに及ぶ日本有数の大河ですが、そのほとんどが埼玉県内を流れています。この調査は埼玉県の事業として行われました。
仮にこの調査がスーパー堤防の下準備に過ぎないとしても、5年間もの歳月をかけた膨大な調査資料、研究成果をそのまま眠らせておくのはもったいないという声が上がるのは当然の帰結です。埼玉県はこのような声を拾い、荒川中流域にあたる、寄居町に博物館を作り、この研究成果を残すことを決定しました。
川の博物館の立地
埼玉県大里郡寄居町の、この立地は単に荒川中流域というだけではありません。この付近の流域は玉淀(たまよど)と呼ばれ、荒川流域の中でも長瀞と比肩する名勝とされています。また、寄居は埼玉県の旅行においては、交通の要衝です。寄居駅は長瀞・秩父へと走る秩父鉄道の主要駅であるばかりではなく、池袋・川越からの東武東上線やJR八高線が集結し、埼玉旅行においてはこの駅がハブの役割を担っています。それだけだは無く、関越自動車道花園インターチェンジから長瀞・秩父へ向かう国道140号線も寄居町を通貫しています。埼玉県に数多くある市町村のうち、この寄居町を選ぶということは、旅行客に立ち寄ってもらうことを最優先しているということです。この点については、神奈川県が地球博物館を神奈川県最大の観光地、箱根の手前に新設したのと同じ発想です。
川の博物館は、国道140号線や秩父鉄道、あるいは寄居町の中心部のある荒川左岸ではなく、荒川右岸、つまり南側にあります。寄居町全体の地図で見ると、川の博物館はほぼ中央に位置しますが、寄居町と近隣市町村との境界線は複雑に入り組んでおり、川の博物館のある、寄居町小園から更に東の寄居町男衾(おぶすま)の里、更に関越道を超えて嵐山町と境界を接するところまで寄居町は東に延びていますが、花園インターチェンジから川の博物館の対岸までの部分は埼玉県深谷市になっています。
深谷市の花園インターチェンジから寄居中心街までの荒川北岸は農地や市街地などで、かなり開発されていますが、川の博物館のある荒川南岸は、東武鉄道や国道254線が走り、それなりに田畑や民家もあるものの、かなり森林が残されています。自然と人とがうまく調和した程よい環境です。博物館前の河岸は「かわせみ河原」と呼ばれるキャンプができる広い河原になっています。
寄居町の西部に行くと完全な山岳地帯に入りますから、寄居町東部で、ある程度自然が残っているこの地域が立地条件として最適と判断されたのでしょう。荒川は全く異なる二つの顔があります。一つは奥秩父の山奥から秩父盆地や長瀞を流れる清流としての顔。もう一つは関東平野から東京湾へと流れる大河としての顔。この二つの表情を併せ持つ、川の博物館の立地は荒川の全てを表現するには、唯一の場所なのかもしれません。
川の博物館のスケール
博物館の旧来の概念でいうと、展示物を屋内に展示するため、博物館の大きさは延床面積や展示面積などで表されます。川の博物館の本館の延床面積は3,998平方メートル、レストハウスなど全ての建物を含めると4,984平方メートルです。大宮にある埼玉県立歴史と民族の博物館は11,363平方メートル、全国の県を代表する県立博物館も多くは1万平方メートル以上あることを考えると、川の博物館は決して大きくはありません。川の博物館の翌年、平成8年に滋賀県にオープンした琵琶湖博物館に至っては2万平米を超える規格外の大きさですから、比べ物にはならないでしょう。
川の博物館が他の県立博物館を上回るのは総敷地面積です。川の博物館の47,309平方メートルという広大な敷地面積は、京都の国立博物館の敷地面積にも匹敵します。博物館の敷地面積というのは、元来評価の対象にもなりませんでした。しかし川の博物館は、その広大な敷地の大部分をテーマパーク化することによって、常識を覆しました。それについては後ほど詳しく説明しますので、ここでは触れませんが、テーマパーク化といっても博物館の本質を逸脱するわけではありません。あくまでも荒川の理解を深めるための施策と考えてください。
川の博物館の屋外の施設、すなわち大水車や荒川模型などを展示物と捉えると敷地面積イコール展示面積と見做すこともできます。そうすると一転して川の博物館が全国の県立博物館でも最大級の博物館とされてもおかしくはないでしょう。しかし博物館の大きさなどということは、博物館を訪れる旅行者にとっては、実はどうでもよい話で、大きかろうと小さかろうと、その展示内容に満足できるかどうかが全てです。
次節以降で川の博物館の展示内容について見ていきたいと思います。冒頭で川の博物館を異形の博物館と銘打ちましたが、全てが異形なわけではありません。平凡な部分と、普通ではない部分に分けることができます。まずは平凡な部分から紹介します。
川の博物館の平凡な部分
本館第2展示室
まずお断りしなければならないのは、平凡というのは展示物が平凡でつまらないという意味ではなく、展示方法が旧来の博物館の伝統にのっとった方式で、奇抜さがないという意味だということです。むしろ川の博物館が本来見せたかった研究成果や資料などのほとんどが、この第2展示室に詰まっているといえます。ただ川の博物館の守備範囲は意外な程広く、テーマは川に集約されますが、歴史、地質、生物、民族、文化、産業など多岐に渡り、それぞれに膨大な資料が揃っているため、年数回の企画展示で小出しにしていく以外方法はありません。過去の企画展示の履歴を見るにほとんど重複していず、まだまだ無尽蔵に新しいものが出てきそうです。
第2展示室は照明も明るく、壁や展示ケースなど全て白を基調としています。一方川の博物館のメイン施設といってもよい第1展示室は黒を基調として照明を暗く落としています。第1展示室の展示方式については後で紹介しますが、両展示室の展示方式も全く異なります。
この第2展示室に川の博物館の全体模型があるので、ここで紹介しておきましょう。(写真2)
川の博物館は荒川に面して建てられており、荒川側が正面となります。そのため模型も地図とは上下が逆さまになっており、上が南、下が北になります。本館は右上の建物ですが、敷地に対する占有率が低いのがおわかりになると思います。この写真は下が切れてしまっていますが、実際の模型の一番下には東西に流れる荒川も造形されています。荒川との位置関係も示すため、航空写真も載せておきましょう。
航空写真を見たとき、私は驚きました。川の博物館の目の前を流れる荒川がこれほどまでに複雑な地形であるということは、航空写真を見なければ絶対に気づくことはできませんでした。かわせみ河原からみても、川の博物館の展望台からみても、この地形は全く想像できません。これほどまでに複雑な地形は荒川流域でも他に類を見ません。
写真3も上下が逆になっており、荒川は右から左に流れています。関東平野を流れる荒川の下流部は全て完全に治水され、河原は堤防に囲まれ広い河川敷になっていますが、寄居付近から上流は自然の地形がそのまま残っています。ちょうどこの辺りは大きな中洲が表れています。かわせみ河原は天然の広い河原で、キャンプ場になっています。写真3は2010年のちょうどゴールデンウィークに撮影されたもので、かわせみ河原の繁盛ぶりが伺えます。そして川の博物館の敷地内には宮川という小川が流れています。川の博物館は、ちょうど宮川と荒川の合流点、複雑に中州が形成され、かわせみ河原のあるこの地点を、あえて選定して設立されたということになります。写真を見る限り、荒涼な砂漠に切り開かれた運河群のように見えますが、実際には現在は河岸、中洲ともに緑に覆われています。多分航空写真撮影当時、水量の変化などで一時的に草木が失われたのではないかと私は推測しています。
レストハウス
川の博物館のレストハウスは本館と別棟で、一階が休憩ホール、2階がレストランになっています。外観・内装・メニューともに平凡の評価を免れることはできません。
渓流観察窓
本館を出て、壁伝いに右に進んでいくと、片隅に渓流観察窓という小部屋があります。大きな水槽にヤマメなどの淡水魚が飼育されています。川の博物館の広大な敷地の片隅に、隠れたこのような場所を作るという発想はある意味非凡といえるのですが、日本各地に淡水魚系の水族館も増え、川の地形を模した展示方法も一般的になった今、この「渓流観察窓」は平凡と言わざるを得ません。2007年に岐阜県各務原市にできたアクアトトや栃木県のなかがわ水遊園など淡水魚に限ってもすばらしい水族館が多く、また博物館でも先に紹介した琵琶湖博物館の水槽展示は本格的です。川の博物館の渓流観察窓は、あくまでも一つの「窓」ですから、それらの大施設とは比べること自体が間違っています。それでも魚たちは活き活きと泳ぎ回り、淡水魚を観察するのであれば、それで充分ともいうことができます。
「川の博物館の平凡な部分」についての補足
平凡という言葉を使うと、ややもするとマイナスイメージに捉えられることが多いですが、ここでは忘れてはならないことがあります。川の博物館はファミリー層に人気の博物館で、次節で述べるこの博物館の奇抜なアイデアや遊び心が子供たちを喜ばせる源泉となっています。ただ、この川の博物館を出発点として始まる長瀞旅行あるいは秩父旅行は、一人旅の旅行者が多いエリアであることも忘れてはいけません。そもそも埼玉旅行自体、一人旅というのが重要なキーワードになっています。一人旅の旅行者にとって、テーマパークはディズニーランドやUSJよりも埼玉県飯能市のムーミンバレーパークが人気があるのは、一人旅で落ち着いて散策できるエリアが多く確保されているからです。テーマパークといえどもアトラクションで埋め尽くされていては、一人きりの旅行者の居場所がなくなってしまいます。ムーミンバレーパークと同様に川の博物館はファミリー層だけではなく、一人旅の旅行者にとって、落ち着いて見学できる導線も十分に確保されているのです。
川の博物館の最寄駅、水車をモチーフとした駅舎の鉢形駅は小さな閑静な駅です。線路を渡り徒歩20分ほどで川の博物館に辿りつきますが、途中の田園風景は一人旅でこそおすすめしたい風景です。下り坂をおりると緑豊かな荒川が眼下に広がり、カーブを曲がると突如として川の博物館の巨大水車と背後の大森林が飛び込んできます。秩父鉄道を乗り継ぎ、あるいは直接東武東上線でゆったりとした電車の旅から20分ほどのハイキングで行く川の博物館は一人旅の絶好のコースと言えます。また一人旅はそこから長瀞・秩父といった埼玉県の奥地へと続けていくこともできます。
川の博物館の右半分は「荒川わくわくランド」という子供向けのウォーターアスレチック施設が広がっていますが、一人旅の旅行者にとって、それは無縁の施設です。鉢型駅からの快適なハイキングコースの延長線としては、むしろこれらの「平凡な部分」こそが相応しく、最も落ち着いて時を過ごせる場所になるでしょう。もちろん次節で紹介する「非凡な部分」が一人旅の旅行者向けではないわけではなく、川の博物館の水車群や異次元空間のような本館第1展示室は必見ですし、常軌を逸した巨大展示物「荒川大模型173」を心ゆくまで堪能するには、むしろ一人旅の自由さがなくては不可能とさえ言えます。
川の博物館と水車
川の博物館の敷地の中央には3棟の水車が設置してあります。一つは埼玉県秩父郡皆野町から移設したコンニャク水車、もう一つは埼玉県秩父郡東秩父村から移設した精米水車、そして直径24メートルの日本一の大きさを誇る大水車です。
日本古来の農村の建築物の中で、水車は最も人気があるといって良いでしょう。そのため全国各地のさまざまな観光地で水車が設置され、逆に珍しさが感じられないものになってしまいました。
水車は本来、写真7、8のように小屋とワンセットになっています。写真8のような木造の簡素な水車小屋が、日本の水車の典型です。水車小屋は水力による大型の工作機械といっていいと思います。水車の軸に各種の歯車を組み合わせることによって、回転運動を上下運動へ変換させ、精米、製茶、製粉などの過程のルーチンワークを自動化する、大掛かりなシステムが本来の水車と水車小屋の役目でした。全体を一つのシステムとすると、水車部分は一つのパーツに過ぎず、本体は歯車などほとんどの部品が収納されている小屋部分が本体ということになります。
しかし、いくら小屋部分が本体であると主張しても、人間の目から見て印象に残るのは水車部分です。水車の実用性が失われ、観光客向けのオブジェとしての再現された現代の水車の特徴は、小屋に対して水車部分が異様に大きいことが挙げられます。
写真7で紹介した皆野町のコンニャク水車と、写真8で紹介した東秩父村の精米水車はいずれも、昭和中期まで現役で稼働していた折り紙つきの実用的な水車です。かつては埼玉県には数えきれないほど多くの水車が存在していましたが、川の博物館がオープンした平成の時代まで現存していた水車は、たったこの2棟だけでした。荒川水系の自然、歴史、文化の総合的な博物館を目指していた埼玉県立川の博物館にとって、この2棟は是が非でも入手したい展示物でした。そして念願かない双方とも手中に収めることができたのです。
この2棟の水車は、性能面から見ても、歴史的価値から見ても世界屈指のものであることは間違いありません。しかしながら観光客視点から見ると、残念ながら地味に映ってしまうようです。コンニャク水車は水車部分は十分に大きいのですが、金属製というのが評価を下げてしまっています。精米水車の方は全て木製で風情はあるのですが、全体的なサイズが小さく、水車部分も細く直径も小さいため貧相に見えてしまうようです。
そこで川の博物館は、観光客向けにアピールできる第3の水車を建造することを決断しました。この計画中にある情報が入ります。青森県に直径22メートルもの大水車が建設されたのです。しかもそれは個人経営の旅館が作ったものでした。
川の博物館は埼玉県の威信をかけた大事業であるだけではなく、川に関する専門家、エキスパートの叡智を集結した博物館です。オープン前から川の博物館への期待値と、関係者たちのプレッシャーは並々ならぬもので、ナンバー2を目指すなどということは許されざる状況でした。当然のように日本一の大水車を建造しましたが、その記録は長くは続かず、2004年には岐阜県の大水車に抜かれてしまいます。実はこれらの大水車、あるいは日本一水車なるものは全国に20か所以上あり、川の博物館の水車ができる前からデッドヒートが繰り広げられていました。2019年の改装を機に、川の博物館の大水車は再び1位に返り咲きます。ビルの高さ然り、観覧車の大きさ然り、このような戦いに終わりはありません。いずれ日本一の座をどこかに明け渡すことになるのは覚悟しなければなりません。
しかし何故、既に実用性を失った水車というものが、このようなレースの舞台になり得るのでしょうか。これら大水車の多くは、水車の本体と言える小屋部分をもたず、水を浴びてクルクルと自らを回転させるのみです。
ムーミン小説にでてくる水車
埼玉県には素晴らしいテーマパークがあります。それは埼玉県飯能市のテーマパーク、ムーミンバレーパークです。ファミリー、友人同士、カップル、一人旅、老若男女全ての人が楽しめるテーマパークです。ムーミンバレーパークの元になったムーミン原作といわれるものはコミック・絵本・小説など多様な形態がありますが、その中心となるのは児童小説、いわゆる9巻のムーミン小説です。その第4巻にあたる「ムーミンパパの思い出」の中に興味深いオブジェクトが出てきます。当作ではムーミンではなく、その父親のムーミンパパというキャラクターが主人公になっています。
ムーミンパパは物心つく前に捨て子として孤児院に入れられます。夢想家であるムーミンパパは規律にしばられた孤児院の生活に馴染めず、冒険家になるため家出を決意し、そこから放浪の旅が始まります。森に迷い込んだムーミンパパは、小川の中に小さな水車を発見します。水車といっても一種の玩具で、2本のY字の枝を川底に差し、枝の分かれ目に横棒と4つの大きな葉っぱを置き、川の流れでクルクルと回転するだけの代物です。
川の博物館の大水車も、ムーミンの小水車も実用性がなく、水の力でただ回転するのみという点が共通してます。ムーミンの作者ヤンソンはどうして、このようなアイテム、小水車をそこで登場させたかと言いますと、それが物語に関わる大きな伏線になっているからです。
小水車を製作したのは森の中で長年1人で研究を続けてきたフレドリクソンという一見冴えない中年男性です。フレドリクソンがこの小水車から着想を得て発明した「海のオーケストラ号」という船に搭乗するところからムーミンパパの冒険者としてのキャリアが始まります。「海のオーケストラ号」は現実にはありえない奇想天外な船で、作者ヤンソンの空想の産物です。
海のオーケストラ号は船体の左右に水車がついています。水車が付いた船は現実にも何種類か存在し、それらは外輪船と言われています。外輪船はエンジンによって水車を回転させ前に進むのに対し、海のオーケストラ号にはエンジンはありません。海のオーケストラ号の水車は川の流れに任せて回転し、その回転を歯車を使い横回転に変換させ、最後尾のスクリューを回転させることによって前進する仕組みです。どう考えてもこの仕組みで川の流れに逆らって進むとは思えませんし、実現不可能と思われます。
実現不可能なものを作るからこそフレドリクソンは天才発明家であり、後にフレドリクソンは国王の援助を受け空飛を飛んだり、海に潜ったりもできる新しい船も開発します。
いかに小説上で天才発明家という設定にしても、いきなり海のオーケストラ号を生み出すのはあまりにも唐突です。そこで作者である女流作家トーベ・ヤンソンは森の中でフレドリクソンが森の中で最初につくった発明品が、木に枝と葉っぱでこしらえた小水車であるというエピソードを組み入れ、また孤児院を飛び出して森を彷徨う自称冒険者の少年時代のムーミンパパが人生の第2章、つまりフレドリクソンと出会い本物の冒険者になる人生の転換点の象徴として、ムーミンパパがその小水車を見つける場面を描いたのです。先ほど私が興味深いオブジェクトと述べたものは、この小さな水車のことです。
水車は人類が発明したもっと古い原動機で、紀元前前から世界各国で使用されています。しかし近世に入り、蒸気機関などの産業革命の波に飲み込まれ、水車は次第に使われなくなっていきました。水車の発明の経緯については、あまりにも古い時代のため文献は残されていず、はっきりしません。しかしこれだけは言えます。原動機としての水車小屋が発明されるもっと前の時代に、水車部分、つまり水の流れに押され軸が回転することに誰かが目をつけたはずです。フレドリクソンが枝と葉で自ら作った小水車に着想をえて水車の回転で動く船を発明した過程は、人類が水車小屋を発明した過程そのものです。
写真10:ムーミンパパとフレドリクソンの小水車(画像外部リンク:amazon)
川の博物館の大水車とフレドリクソンの小水車
写真10を見ていただければお分かりの通り、フレドリクソンの小水車は木の枝と葉で作られた原始的で小さなものです。対して写真9の川の博物館の大水車は直径24メートルで、木材を複雑に組み合わせ、安全性、耐久性なども計算されつくされた現代の水車です。この2つの水車を同じグループに入れるのは暴論かもしれません。しかしどちらも実用性が無く、その場で回転するだけの水車という点については全く同じです。
そしてもう一つは川の博物館の大水車もフレドリクソンの小水車も単なるオブジェを目的に作られたものでは無いということです。フレドリクソンは装飾品などに全く興味を持たない人物ですから、それが飾り物として作られたものではないのは自明です。森の中で長年このシンプルな水車の回転を眺めながら、次なる発明品を頭の中に描いていいたのです。
それでは川の博物館の大水車はどうでしょうか。ごく少量の水の重さで、あれだけの大きな水車を回転させることに感嘆する人もいるでしょう。コンニャク水車や精米水車のように歯車による機構を見学するのも、学ぶことが大きいと思いますが、大水車はより直感的に水力の働きを印象付けられます。川の博物館の運営側の意図としては、少なからず、見学者の川に対する理解を深めてもらうということがあると思います。しかし最終的にはそれは、ここに訪れた各旅行者に委ねられます。日本一ランキングに固執して作ったのではないかという感想を持つ人もいれば、オブジェとして眺めるのに喜びを覚える人もいます。あるいはフレドリクソンのように、この大水車をヒントとして何か新しい発見をする人もいるかもしれません。
川の博物館の大水車の存在意義
川の博物館の3台の水車のうち、コンニャク水車と精米水車はいずれも小屋内部に複雑な機構を持っており、このような機構に興味を持つ人にとっては大変価値があります。歯車がどのように組み合わさり、水車部分からの力がどのように変化しているのかを頭を使い理解する展示物といえるでしょう。一方大水車は非常にシンプルで、ただ回転するだけです。余計な思考は必要ありません。川の博物館を訪れた人は全員、否応なく大水車がダイナミックに回転する様を目に焼き付けることになります。左脳で理論的に考えて見学するのが、前者だとすると、後者は右脳で感覚的に鑑賞する水車だといえるでしょう。既にコンニャク水車と精米水車という機械としての水車を保持する川の博物館にとって、3台目の水車は出来るだけシンプルな、感覚的に理解できるものを選択するのは必然とも言えます。
経済の話に置き換えてみましょう。実際の市場経済は大変に複雑です。物の価格は、材料の原価、流行、法律、文化など様々なパラメータが絡み合って決まるため、簡単には予測できません。しかし経済学では、最も単純化したモデルを作り分析します。つまり需要と供給というたった2つのパラメータのみで価格を説明します。複雑な要素を分析することも必要ですが、一番最初にするべきものは、最もシンプルなモデルを提示することです。
大水車は、水車の最もシンプルなモデルです。現実に埼玉県内で使用されていた2台の実用的な水車小屋の目の前に、このシンプルな大水車があることこそが、最も重要な点なのです。
川の博物館の陶板画
川の博物館には、前節で登場した大水車の他に、「日本一」の展示物が2つあります。その一つが、川の博物館本館の外壁にかかる全長21メートルの大陶板画(だいとうばんが)です。陶板画とは何かというと、簡単に例えると銭湯のタイル画のようなものと考えれば良いでしょう。銭湯のタイル画の場合、小さなタイルを碁盤の目のように張り合わせていますが、川の博物館の陶板画は、数えてみたところ、たった72枚しか使っていません。各タイルは約250cm×60cmもの大きさです。これだけ大きな陶板を焼くということになると、普通の陶器では不可能です。最も耐久性が高いといわれる滋賀県の信楽焼が使われています。外壁に展示することは長年に渡り風雨にさらされるということですので、劣化の心配がありますが、現在のところ全く劣化していませんので、相当な技術で作られているのでしょう。
過去の名画を陶板画にして残すというのは、近年流行しているようです。平成2年大阪で開催された花と緑の博覧会が大陶板画ブームの火付け役といえます。安藤忠雄設計の庭園にミケランジェロの最後の審判などの名画を陶板画に焼き付け展示し話題になりましたので、それがこの川の博物館が大陶板画の採用に影響しているはずです。埼玉県立川の博物館がオープンした翌年、四国の鳴門に大塚国際美術館が開館しましたが、この美術館は中世から現代にかけて世界中の名画を陶板画にして展示してあります。最近ではキトラ古墳の壁画や、風神雷神屏風絵の陶板画による再現がニュースになりました。絵画の大作品をコピーし展示する手法としてはすでにスタンダードになりつつあるといってもいいかもしれません。
川の博物館と川合玉堂「行く春」
川の博物館は美術館ではありませんから、巨大な陶板画を何枚も展示するということはできません。ただ一点の最も相応しい作品を選定する必要がありました。それは当然、川にまつわる絵画であるべきで、できれば荒川、埼玉県の風景が望ましいはずです。このような条件に合致する絶好の作品が存在しました。東京竹橋の国立近代美術館に所蔵されている川合玉堂の代表作「行く春」です。
川合玉堂(かわいぎょくどう)は明治から昭和期にかけて活躍した日本画の巨匠です。1940年には文化勲章、1951年には文化功労章を受章した名実ともに日本画の中心的な人物でした。玉堂は愛知県に生まれ、京都で日本画を学び、東京青梅で生涯を閉じました。東京都青梅市の御嶽駅の近くには玉堂美術館があります。一見、荒川にも埼玉県にも関係がない画家にみえますが、1916年に秩父・長瀞へ旅行したという記録が残っています。この秩父・長瀞旅行の後に制作された六曲一双からなる屛風画「行く春」は玉堂の代表作といわれており、国立近代美術館にある「行く春」の現物は国指定重要文化財です。国立近代美術館においても、この作品は目玉作品の一つですが、国立近代美術館はあまりにも収蔵物が多いため展示できる作品はごく一部です。一年を4期に分け、13,000点の作品をローテーションで回していくのですから、「行く春」でさえも年中いつでも見れるわけではありません。春期の常設展であればこの作品を鑑賞することができますが、それ以外の時期に国立近代美術館に行っても、ほとんど鑑賞できるチャンスはありません。国立近代美術館の倉庫には、それ以外にも大量の名作が眠っており、非常にもったいないことです。もちろん他の美術館への貸出もしているのでしょうが、今後常時鑑賞できるように陶板画の複製を別の美術館などに展示するという手法は増えていくかもしれません。美術ファンがどれだけ埼玉県寄居町の川の博物館まで足を運んでいるかはわかりませんが、「行く春」を展示するシチュエーションとしては東京都心より絵のモチーフとなった埼玉県の荒川河岸が相応しいに違いありません。何よりここでは博物館の開館日であれば、一年中見ることができ、しかもその大きさは日本一です。
さて、川合玉堂の「行く春」ですが、玉堂屈指の名作であるとともに問題作でもあります。
下流から上流へと逆流する荒川
まず、この絵を見て一見すると、奥に岸壁があり、手前に丈の低い岩の連なりの景観が描かれていますので、岩畳ある河岸から荒川を見た図と感じるでしょう。そして3艘の船はライン下りの舟ではないかと勘違いする人も多いと思います。しかし、ここを長瀞だとすると川幅に対して船の大きさが異常に巨大で、その上、画面からはみ出るほどの高さの対岸岸壁も、やはり川の幅に対し、不自然な高さであるということになります。しかも長瀞であれば、このように波立つことはほとんど考えられず、しかも左から右へ強く波立っているように見えます。それと三艘の船をもう一度見てください。船上に家と水車が描かれており、まるで前節で触れた、ムーミンの海のオーケストラ号や外輪船のような形状です。実はこの船こそが、船車(ふなぐるま)と呼ばれる、明治時代に埼玉県荒川流域に多く見られた、水車小屋と船の融合体なのです。
船車については、次節以降の話題としましょう。ここで重要な点は、船車は水上を移動するのが目的の舟ではなく、川岸にロープで固定し、水上で動かずに粉ひきなどの作業をするものだということです。この絵においても、右の2艘は奥の岸に、左の1艘は手前の岸にロープで繋がれていることがわかります。
ロープに繋がれた船車が、いずれもロープより右側にあるということは、やはり左から右に強く川が流れていることの証左です。しかし実際の長瀞においては、右が上流、左が下流です。この絵においては下流から上流へと強く川が流れています。このようなことは天変地異でもない限り起こりえません。桜咲く長瀞ののどかな風景に、玉堂はこのようなとんでもない創作を組み入れました。そもそも船車は荒川でも寄居町より下流域で多く使われていましたので、わざわざこのような上流の景勝地まで出てくることは考えられません。鬼才玉堂は短い秩父・長瀞旅行の中で、荒川沿岸で見たさまざまなパーツを頭の中で組み合わせ、この現実離れした構図を生み出したのです。
荒川大模型173
川の博物館にある3つ目の日本一
川の博物館は「川」に関する総合博物館ですが、ここでいう「川」は具体的には埼玉県最大の川「荒川」を指します。埼玉県立の博物館であることや、その設立の経緯から考えても、展示内容が荒川水系中心となるのは必然でした。単一の対象の博物館であるならば、その対象の全体像を示すのは必須といえるでしょう。富士山の博物館であれば、富士山の全体像、琵琶湖の博物館であれば琵琶湖の全体像を展示します。いくら個々の展示物が充実していても、地図であれジオラマであれ、全体像を表現しなければ始まりません。
荒川主体の博物館である以上、荒川の全体像を示す必要があるというのは自明のことですが、一つ大きな問題がありました。荒川の全長は173kmと長く、対して川幅は一番広い場所でもせいぜい数十メートルです。普通の大きさの地図やジオラマを作った場合、荒川は線でしか表現できません。荒川を面として表現するには、相当程度の大きさが必要です。
川の博物館には日本一のものが三つあります。大水車、大陶板画そしてこの荒川大模型173です。前者2つについては狙いにいって日本一になったという面も大きいですが、この荒川全体像を表現するための手法を考え抜いた末の結論が、たまたま日本一だったというのが適切でしょう。下の写真12を見るとわかりますが、荒川大模型173は本館以上の長さがあり、もちろん川の博物館最大の展示物です。
アメリカの川の博物館
埼玉県立 川の博物館は平成9年、西暦にすると1997年に開館した日本で初めての川の博物館ですが、アメリカでは当時からいくつかの川の博物館がありました。その中でもっとも有名なのがテネシー州メンフィスにあるミシシッピ・リバーミュージアム(Mississippi River Museum,1982年開館)です。ミシシッピ・リバーミュージアムは名前の通り、アメリカで最も著名な大河川といってもよいミシシッピ川の博物館です。この博物館の代名詞的な展示物がリバーウォークと呼ばれるミシシッピ川下流の大模型です。ミシシッピ川は全長3734mの大河川で、荒川の20倍以上です。大模型リバーウォークは600mもありますが、それでもミシシッピ川全域は全く収まりきらず、リバーウォークが模型として表現するのはミシシッピ川の下流域のみです。
埼玉県立 川の博物館の「荒川大模型173」はこのミッシシッピ・リバーミュージアムの大模型「リバーウォーク」を参考に作られましたが、出来上がったものを比べると全く別のものが出来上がりました。なぜなら、リバーウォークは下流域に限られるため、多くは平坦地で、模型ものっぺりと平らな形をしていますが、荒川は水源域から上流域、中流域、下流域から東京湾河口、そして荒川に流れ込む支流域までも全て取り入れ、更にその周囲の山岳地帯も表現したため、模型全体の形状も起伏に富み立体的です。荒川大模型173は1000分の1の縮尺で作られていますが、奥秩父の2000級の山を表現すると2メートル以上の高さになります。ミシシッピ下流域の山はせいぜい数百メートルで、荒川大模型173よりも尺度を圧縮してますから、ほとんど平坦な模型です。荒川大模型の上流域に関していえば、リバーウォークとは全くの別物といえます。
埼玉県立 川の博物館の「荒川大模型173」の全長173メートルとアメリカの「リバーウォーク」の全長600メートルを比較し、なんだそれではアメリカのリバーミュージアムに行く方が良いと考えるのは早計です。アメリカ「リバーウォーク」にはミシシッピ川の上流部が欠損しています。
個人的に言えば、埼玉県立 川の博物館「荒川大模型173」の最大の魅力はこの上流域とその周囲の山々です。下流域はほとんど平坦なため、地形図で見るのと印象がほとんど変わりません。最高2m以上の山岳部の立体模型は、地図で見るのと印象は全くことなりますし、やはり迫力があります。実際に見るのともまた違った印象です。秩父、奥秩父の山々は複雑に入り組んでいるため、実際に全域を見渡すというのは空の上からでないと不可能です。私は秩父、奥秩父の山は20山ほど登ったことがありますが、いずれの山頂からも必ず他の山の陰になる部分があるので、渓谷部分など全部を見渡すことはできません。
荒川大模型の作り方
荒川大模型173の制作には株式会社トリアド工房という東京都八王子市の会社が携わっています。1000分の1地形図を階段状に積み上げただけですから、技術的にはたいしたことがないと思うかもしれませんが、これは実際には大変な作業であったと想像されます。
規模が大きいのももちろんですが、それ以上に作業自体がとてつもなく手間がかかることがわかります。荒川大模型の縮小版であれば、根気さえあれば家庭でも作成できるはずです。まず国土地理院の5万分の1地図を購入し、100枚以上コピーし、それぞれのコピーを厚紙に貼り付けます。これからが大変です。何十枚のコピーをそれぞれ等高線に合わせて切り抜かなければなりません。5万分の1地図の等高線は高さ20m刻みに描かれています。この等高線を切り抜き、積み上げていくのです。2000mの山であれば、単純な形の山を表現するのに最低100枚のパーツが必要です。荒川上流部の地形はそう単純ではありません。尾根と谷が複雑に絡まりあった奥秩父周辺については等高線を切り抜くだけでも大変です。
全長173メートルの大模型をトリアド工房が全て手作業で等高線を切り抜いたとは考えずらく、おそらく地図データをもとに3Dプリンターなどでパーツを作ったのだと思います。運搬のためには、パーツの大きさは制限されるため、何千、何万のパーツに切り分けてパーツを作ったはずです。それを積み上げていくには最終的に手作業が必要です。どのように膨大なパーツを見分け、間違わずに組み立てることができたのか、想像するだけで空恐ろしくなります。
アメリカのリバーウォークも縮尺を変更し、ミシシッピ川全域を模型にする選択肢もあったはずです。アメリカのリバーミュージアムがその選択肢を回避した最大の原因は、この上流部の恐ろしく手間のかかる手作業の存在に気づいたからでしょう。その難題を日本の中小企業トリアド工房は見事に成し遂げました。
このような人知の限界を超えた努力によって作られた荒川大模型173は川の博物館の中でも必見の展示物ですが、実際には大きすぎてどこから見ればよいのか戸惑うかもしれません。埼玉旅行で訪れた人であれば、自分の行ったことがある場所、または行きたい場所を探すことから始めると良いでしょう。主要な駅名や山名などは表示されているので、それほど難しくないと思います。次に埼玉県最高峰甲武信ヶ岳を探してみてください。甲武信ヶ岳は荒川水源の山で、この山の山中から荒川本流が流れています。荒川本流に流れ込む支流も見どころの一つです。各支流には必ずといってよいほど大きなダムがあり、私などはそのダムのある位置の高さに驚きました。地上から見ると遥か上空の高さに巨大なダム湖が作られています。これは地図をみても気づかないことです。ミューズパーク、羊山公園など秩父の観光地もかなりの高さにあることがわかります。
荒川大模型173は興味を持ち始めるといくら時間があっても足りません。私も納得が行くまで、この模型を見学したことはありません。人と一緒に訪れた場合、その相手に合わせる必要がありますので、どこかで切り上げる必要がでてきます。そういう意味で、荒川大模型173は一人旅でのみ満足できる展示物といって良いかもしれません。いずれ半日くらいの時間をかけて、ゆっくりと荒川大模型を鑑賞するというのが、密かな私の夢でもあります。
川の博物館「本館第1展示室」―セオリー無視の手法
博物館の展示方法にはセオリーのようなものがあります。明確なルールではないと思いますが、展示物の展示方法にいくつかのパターンがあるのは事実です。それらを挙げてみましょう。
- 展示物を時代順に並べる
- 地域ごとに分類する
- 生物・地質・歴史・文化など学問分野ごとに分類し展示する
- テーマごとに分けて展示する
ユニークな博物館も日本各地にいろいろありますが、おおむね上記のようなセオリーは順守しているように感じます。博物館の展示方法に何らかの制約はあるのでしょうか。もちろんフィクションを事実のように展示することはNGだと思いますし、何らかのテーマを扱っている博物館が、全く違う内容を展示するようなことはできません。しかし展示方法に関する細かいルールが法律で決まっているわけではないはずです。
川の博物館「本館第一展示室」の概要
写真14のとおり、第1展示室は川の博物館本館の最も大きな部分を占めています。川の博物館の屋内展示室は、この第1展示室と、既に紹介した第2展示室の2室のみです。つまり、この本館第1展示室が川の博物館のメイン中のメインであり、川の博物館が最も見せたい展示物を集結した部分ということです。
写真14の右端にある木造の大水車が直径24メートルですから、おおよその大きさは想像できると思います。本館の建物をみてまず目につくのは、中央の円柱形の部分でしょう。この円柱の右側に本館入り口があります。この円柱部分は、以下のようになっています。
円柱部分は吹き抜けになっており、写真15の左端の階段から2階の高さの壁沿いに回廊がつづいており、その先に第一展示室の入り口があります。この写真を撮った場所が、第1展示室手前の回廊ということになります。円柱の真ん中には古代人の木彫りの船が展示されていますが、ここは展示室というよりも、第1展示室という異世界に入るための大がかりな導入部としての意味合いが強いように感じます。
川の博物館第1展示室2F部分
川の博物館の第1展示室に入るには、先ほど紹介した円形広場から階段またはエレベーターで2階に上がる必要があります。このSFチックなトンネルが第一展示室の入り口です。古代船の円形ホールの次にこれですから、既に博物館のセオリーを逸脱してます。しかしよく見ると、このトンネルを取り囲んでいるのは荒川の風景の写真パネルであることがわかります。2階にあるこのトンネルを潜り抜けて、ようやく第1展示室に入っていけます。
第一展示室の2階部分は写真17・18のようにパネル、映像、立体アニメーションなど様々な手法を使って荒川を説明します。展示内容は一見子供向きにも見えますが、内容はかなり専門的です。その根底には膨大な研究資料があります。第1展示室では資料をそのまま展示するというようなことは一切せず、如何に研究内容をかみ砕いて、誰もがわかりやすく説明するかに力をいれているようです。
突然ここで写真19のようなものが現れます。額縁の中にあるため、絵か写真のようにも見えますが、これは立体模型です。奥秩父連峰、標高2475メートルの高山、甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)にある荒川源頭をジオラマで再現したものです。甲武信ヶ岳は埼玉県・山梨県・長野県の3県にまたがり、甲武信の山名は、武蔵国・甲斐国・信濃国の頭文字をとったものです。甲武信ヶ岳については、以下のリンクを参照してください。甲武信ヶ岳の山頂付近を覆う森林の枯れ木などが何層にも積み重なりスポンジ状になっています。このスポンジによってろ過され、湧き出てくる地点が、この荒川源流点です。
埼玉県の最高峰かつ秩父市の最高峰:甲武信ヶ岳
川の博物館本館第一展示室の試みは、全長173mの荒川の全てをこの展示空間全体を使って表現することです。この長大な流域には各地域の歴史、文化、自然が詰まっており、全てを詳細まで説明しきることなど不可能です。そこで、分類整理して展示するというようなことは最初からあきらめ、2階吹き抜けの第一展示室の大きな空間を最大限利用し、来館者にどうしても見せたいものを強調し、イメージ・概念としての「荒川」を表現することを目指しました。荒川源流点は荒川全体をイメージする上で、最初に思い浮かべるべきものです。まず、この源流点の風景を脳裏に焼き付けておいてください。この後現れる光景は、全てここからの一滴に端を発しているのです。
川の博物館第1展示室1F吹き抜け部分
第1展示室2階の荒川源流点の展示から、ふと振り返ると、眼下に異様な光景が広がります。ここで再び近未来的な景観から時代は過去にさかのぼり、江戸時代風のものが並びます。しかし、天井からは巨大スクリーンがつるされ、展示パネルは現代的です。
写真21の立派な階段が1階への進路です。この現代的な階段とリフト、そして大型スクリーンは江戸時代の展示物たちによって、全体の雰囲気を江戸時代にもっていかれないように絶妙なバランスをとっています。川の博物館は歴史博物館ではなく、古代から現代まで全ての時代の荒川を表現しなければなりませんから、江戸時代から明治時代にかけての数百年に過ぎない歴史に、場の雰囲気を支配されるわけにはいきません。
ゲームチェンジャーとしての川の博物館
写真22はこの第一展示室の最も力の入っている部分といえます。左端の山は山頂の形から甲武信ヶ岳で間違いありませんが、その中腹に鉄砲堰と滝が並んでおり、その流れが荒川を作り、下流に船車が浮かんでおり、その後ろには埼玉県の名山の一つである両神山と二子山の遠景が描かれています。両神山と二子山は国道299号線をはさみ対峙する山ですので、並んでいるのは当然です。しかし両神山の稜線は南北に並び、二子山の双耳をなす東岳と西岳は東西に並んでいます。遠めに見ると写真にさえ見間違うほどの写実的な絵ですから、私はこの絵はどこから書いたものなのか疑問に思い、川の博物館に問い合わせしたことがあります。川の博物館の回答では、この絵は熊谷から寄居方面から見た昭和初期の風景を推測したもので、デフォルメも交えて描いたということです。北東方向から見たのであれば、両神・二子の手前に甲武信ヶ岳があること自体あり得ないことです。この絵画に描かれた3山は、それぞれ最も見栄えのする方向から描かれ、それを最も博物館の良い位置に配置し、うまくつなげたというのが実際のところでしょう。この手法はピカソ・ブラックなどのキュビズムの手法を思い起こさせます。キュビズムとは対象物を様々な視点から観察し、それを統合した絵画です。キュビズム画家の作品の風景画というのは、私は知りません。もしかすると写実的に描かれたように見える作品でも、キュビズムの手法は普通に使われており、鑑賞者である我々は気づかないだけなのかもしれません。
キュビズムの影響を受けた画家として、シャルル・エドゥアール・ジャンヌレという画家がいます。彼は当初キュビズムを批判していましたが、ある時点からキュビズムの信奉者へと変わります。ジャンヌレは画家としてはあまり有名でなく、建築家としての方が有名です。実は彼こそが、世界三大建築家の一人と呼ばれるル・コルビュジエその人です。ル・コルビュジエがキュビズム手法を利用したのが、自身の絵画の上だけなのか、彼の建築物でもその手法は使われているのかわかりません。もし建築物にキュビズム手法が使われていたとしても、私のような素人には理解しようがありません。ピカソの人物画がキュビズムだと理解できるのは、もとの人間の姿がどのようなものかわかっているからです。建築物のもとの姿がどうあるべきかわかっていないものにとっては、どのように改造してもその偉大さが理解できないのです。
ル・コルビュジェは、1918年に出した著作で、キュビズムを無秩序な芸術と批判しましたが、それに反して彼自身の1920年代絵画は既にキュビズムの影響がみられるようになっています。建築においてはどうでしょうか。下の動画は、ル・コルビュジエが両親のために設計し1923年に建設された、スイス・レマン湖畔の別荘です。世界遺産にも登録されています。普通の古びた別荘にも見えますが、何か妙な感じを受けるのは私だけではないでしょう。
続いてル・コルビュジェの後期の作品としてロンシャンの礼拝堂という建築物があります。これはコルビュジエ後期の代表作と呼ばれています。この動画からは明らかに異質な建築物であるということは見て取れるでしょう。
ル・コルビュジエ ロンシャンの礼拝堂(1955)(参考動画)
コンクリートむき出しの建築はコルビュジエの特徴といえますが、同時期コルビュジエはさらに風変わりな木造小屋を作っています。
これはコルビュジエ自身が過ごすために作った休暇小屋で、フランス南部、地中海沿いに建てられました。この小屋も世界遺産に登録されています。これら3件の建築物を並べると全く共通点が感じられず、不思議に思いますが、同じ人物の思考の産物であるということは間違いありません。どういう経緯かわかりませんが、この作品「カップマルタン休暇小屋」の原寸大レプリカが埼玉県のある大学の構内に存在しています。そして埼玉県では、この世界遺産かつ世界的建築家の作品と、同じく埼玉県の公園の一角にある、無名の日本人建築家の設計した小屋「ヒヤシンスハウス」をワンセットのように取り扱われています。
ヒヤシンスハウスを設計したのは、1934年24歳で早逝した詩人立原道造です。立原道造は詩人としては有名ですが建築家としては無名です。実は東大建築学科出身で、将来を嘱望された建築家でもありました。若くして亡くなったため、建築家としての実績は無いに等しいですが、辰野賞を連続受賞するなど非凡な才能は誰もが認めるものでした。当時、埼玉県浦和の別所沼に画家など芸術家のコミュニティーが形成されつつあり、立原道造はそこに敷地を買い、移住を計画していました。立原道造が自身の居住のため、設計図を描いた「ヒヤシンスハウス」が現代に入り、日本の著名建築家などによって再評価されています。ヒヤシンスハウスは一見普通の山小屋風のたてものですが、よく見るといろいろと奇妙な点がでてきます。ル・コルビュジエの影響を受けたようにもみえますが、実際は時代が逆です。ル・コルビュジエがカップマルタン休暇小屋やロンシャンの礼拝堂を建てたのは1950年代で、立原道造が亡くなったのは1934年です。この辺については川の博物館とは関係の無い話ですので、別に記事を書きたいと思います。
さてこのへんで、川の博物館に話題を戻しましょう。ここで言いたかったことは、絵画においては写実的な絵画から、印象派、キュビズムと発展を遂げました。建築についても同様といえるでしょう。博物館の展示手法についても、セオリー通りに展示物を並べることが、必ずしもそのテーマの全体像を表現しているとは限りません。より抽象的な方法で展示する手段もあるはずです。デフォルメして様々な角度から重要な部分を一同に展示する川の博物館第一展示室の手法は、挑戦的でもありますが、事実その迫力に圧倒されます。さまざまな時代の様々な要素を一つの空間に放り込むことによって、荒川の全体像を浮かび上がらせることに成功しているといえます。ピカソやブラック、そしてル・コルビュジェや立原道造は4人とも天才と称されることも多いのですが、もうひとつ共通しているのは、彼らは4人とも旧来の流れを変えることができるゲームチェンジャーだということです。
それに対して日本の博物館の多くは、前例を踏襲するフォロワーつまり追随者です。これは展示内容の話ではなく、展示方法についての話です。この埼玉県立 川の博物館は確かにリバーウォークなどの模倣も見られますが、多くの面でゲームチェンジャーです。もしかしたら博物館では日本で唯一のゲームチェンジャーかもしれません。
見沼代用水と見沼通船堀
川の博物館本館第1展示室1階の片隅に写真24のようなコーナーがあります。見沼代用水(みぬまだいようすい)と見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)についての展示です。
荒川を上流部と下流部に2分すると、旅行スポットとしての荒川はほぼ全て上流部に集中しています。それは荒川に限らず、都市に流れ込む全ての大河に共通の点かもしれません。下流部においても、環境技術の発達によって、また人々の環境に対しての意識の高まりによって、以前と比べると水質の汚染やゴミの散乱などは目立たなくなってはきました。堤防や河川敷が整備され、河川敷はスポーツ施設や公園として利用されており、散歩やジョギングコースとしては格好の場所です。このような景観は全国各地の川の下流域において大差はありませんので、わざわざ旅行に来てまで訪れる必要性は見出せません。
そうした中、下流域の川の旅行スポットとして非常にポテンシャルが高い場所が埼玉県内にあります。それが見沼代用水と見沼通船堀です。
見沼代用水
見沼代用水とは江戸時代に作られた農業用水を補給するための人工の川で、荒川水系一級河川「芝川」の東西に2本あります。見沼代用水とは「見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)」と「見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)」という2本の河川の総称です。
見沼代用水は双方とも利根川水系にあたり、荒川水系ではありません。それが川の博物館で見沼代用水の展示が隅に追いやられている理由です。川の博物館の主役は荒川と荒川水系の川です。2本の見沼代用水の間を流れる芝川は荒川水系とはいえ、見沼代用水自体は群馬県と埼玉県の県境を流れる利根川の利根大堰(とねおおぜき)を水源としています。
ここで疑問に思う人もいるかもしれません。どうして東を流れる利根川から始まる2本の川の中間を、西の荒川を発端とする芝川が流れうるのか。これは実は結論からいいますと、川を立体交差させるという離れわざによって生じたものです。このような技術が江戸時代に確立されていたというのが驚きです。
見沼通船堀
江戸時代に確立されたもう一つの驚くべき技術が、見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)です。こちらは世界初の技術とも言われています。見沼代用水は農業用水の供給路とはいえ、水量豊富で充分に舟が通れる広さがあります。物資の搬送を水運に頼っていた江戸時代ですから、当然見沼代用水を水運にも利用したくなります。しかし見沼代用水は2本とも江戸まで伸びておらず、江戸と舟で往来できたのは、2本の中間にある芝川のみでした。そして芝川と2本の見沼代用水を横に繋ぐ運河が見沼通船堀です。
見沼代用水は高台、芝川より約3メートルも高い位置を流れており通常であれば舟が登って行ける高さではありません。この高低差を克服する技術が見沼通船堀に使われています。
見沼代用水も見沼通船堀も、八代将軍吉宗の時代の国家的プロジェクトである埼玉県の見沼開発事業の一連のものです。そして見沼開発事業を一手に任されたのは、紀州藩、今の和歌山県出身の農民出身の1人のシニア世代の男性、井澤弥惣兵衛(いざわやそべい)です。60歳にして初めて上京し、75歳近くまで全国各地を飛び回り、業績を残し続けました。埼玉県では銅像も建てられるほどの歴史上の偉人とされています。江戸時代最大のサクセスストーリーといっても良い事例ですが、全国的知名度は無いに等しいのは残念です。
埼玉県さいたま市緑区、武蔵野線東浦和駅から徒歩10分ほどで見沼代用水東縁と見沼通船堀に到着します。ここは見沼代用水の東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)の距離が最も狭くなっている部分で、東縁から芝川が390メートル、芝川から西縁まで650メートルと絶好の観光散策ルートであるはずですが、実際はそうなっていません。東縁手前は竹林の豊かな通船堀公園、西縁奥には木曽路の富士塚、芝川付近は田園風景も残されています。東西それぞれの関門は全て復元され通船会所も残っています。これだけ必要なパーツが揃っていながら観光地化されていないのはもったいないように思います。せめて小規模で良いので中核となる案内所のようなものと、土産物店、飲食店は必要です。また、現在駅からこれほど近いにも関わらず、駅からの見沼代用水、見沼通船堀への案内標識はほぼ皆無ですが、これがなくては始まりません。観光地化することが必ずしも良いことではありませんが、見沼代用水と見沼通船堀は日本のみならず、世界で類を見ない文化財です。他県からの旅行者に対する気遣いはもう少しあるべきです。
船車~幻のワーケーションスタイル
このページの前半部分で川の博物館にある水車小屋をいくつか紹介しました。船車は川に浮かぶ船ではありますが、移動手段や運搬手段ではなく、どちらかというと水車小屋の一種に分類されます。水車小屋と同様に、水車の回転によって自動的に粉を引いたり、精米をしたりといった作業をするためのものです。
船車(ふなぐるま)は未だ謎が多く、誰が発明したのかも、いつごろから使われていたのかもわかっていません。ただ明治から大正時代には秩父から寄居町付近の荒川中上流域に多く稼働していましたが、その他の地域では、この船車に類するものの存在の話を全く聞きませんので、埼玉県の荒川水域限定の発明品だということになります。江戸時代の文献には既に船車の説明が、図入りで記載されていますので、それ以前から存在していたことは間違いありません。
その後船車は昭和20年代まで稼働していたと言われています。その頃には製粉などの作業はほとんど工場などの機械によって行われるようになりましたので、技術革新によって淘汰されたと見ることができます。
上の写真26が川の博物館第一展示室にある船車の復元模型です。おそらく日本にこの一体しかないと思います。小屋部分が船の左側に大きく張り出しているのが不安感を覚えますが、右側には水車がついているので、これで左右の重心バランスはとれているのでしょう。それにしても、小舟の上にこれだけの大きな水車小屋を載せているのですから、遠くに航行するのには不適当だということはわかります。実際の船車の使用方法も、河原から紐でつなぎ、同じ場所で作業していました。
当時の農民にとって、船車を所有することは1ヘクタールの田畑と同じ価値があると言われていたそうです。昼間の農作業を終えた農民は、この船車に入り浸って粉ひきの作業を続けていました。この大きい小屋の中には、歯車や石臼などの機器だけではなく、夜通し作業するための布団や食器等が常備され、居住スペースが確保されていました。
もしこの船車が現代まで改良を加えながら生き残っていたら面白いことになっていたかもしれません。当時の船車は移動能力に欠けていましたが、独自の進化を遂げ、水上を自由に航行できるようになっていたら、作業をしながら自由に船旅をできるという、画期的なライフスタイルが完成していた可能性があります。いわば究極のワーケーションです。
新種の旅行?ワーケーションとブレジャー製粉の材料をセットしたり、完成した小麦粉を梱包したりといった作業は発生しますが、基本的な粉ひき作業は水車の動力で自動的に行われます。防音設備や居住空間を完璧にしあげれば、快適な船旅ワーケーションになることでしょう。