川越の喜多院
川越市は埼玉の旅行の中心地であることは間違いありません。首都圏では唯一の江戸時代の面影が残る商店街が広範囲で残っており、旅行客が絶えません。
一方で川越市は東京のベットタウンという一面もあります。人口約35万人、埼玉県第3の都市です。川越市中心駅である川越駅は新宿・池袋といった東京のターミナル駅と急行で繋がれ、多くのサラリーマンが往来します。
川越駅から北に伸びるクレアモールは川越で最も賑やかな最大の商店街です。そこには小江戸の情緒はほとんど見られません。クレアモールから東へ歩くと徐々に住宅街の光景に変わって行きます。
川越住宅街と不釣り合いな喜多院の深い森
川越駅の北に広がる住宅街は、あまりに普通の住宅街です。現代的で平和そうにみえる、ごく一般的な住宅街をしばらく彷徨うと、突如として巨大な広葉樹の森に出くわします。この森は南北300m、南北200mですから巨大な森と表現するのは語弊があるかもしれません。住宅街の閑静な林と表現したいところです。しかしそのような表現するには、あまりにも稠密で、木々は天高く伸びきっています。やはり森という表現が正しいのでしょう。
川越の住宅街の中にこの写真のような森が突然現れます。目立った看板などもなく、他所から訪れた人はこの森の奥に何があるのか全く想像つかないことと思います。様々な種類の広葉樹が入り混じった混合林で、夏にはカブトムシやクワガタも多く見つかるといいます。近所の子供たちにとっては格好の冒険の場所です。
川越を代表する寺院、喜多院はこのような森の中に佇んでいます。ここから喜多院の境内にはいるためには、どろぼう橋という小さな橋を渡らなければなりません。
江戸時代のどろぼう橋は一本の丸太橋でした。どろぼう橋には次のような逸話があります。ある盗賊が町奉行に追われ、この橋を渡って喜多院に逃げ込みました。盗賊は喜多院は江戸幕府の直轄領なので、町奉行の追手が及ばないことを知っていたのです。しかし、この森の中でその盗賊は幕府の役人に捕まり喜多院で説教を受け、何日かの修行をさせられたそうです。盗賊はその後改心し、世の役に立つ人物へ生まれ変わったといわれています。
川越駅から喜多院に行く場合、クレアモールを進みそこから西の住宅街を通り喜多院へ向かうという道は最短ルートの一つですが、観光で訪れる場合、おすすめルートとは言えません。喜多院の玄関口はこのルートの反対側、すなわちかつての街の中心であった喜多院の北側です。現在の川越の中心街は喜多院の裏手ということになります。
川越駅から喜多院への行き方(推奨ルート)
川越の街の北には新河岸川(しんかしがわ)という川が流れています。川越は新河岸川の水運で栄えた街です。新河岸川の南岸には川越城という平城がありました。現在も本丸御殿や櫓跡など川越城の名残を見ることができますが、それらはかつての川越城のほんの一部でしかありません。川越城は江戸時代までは、江戸の北方を固める重要な砦の役割を果たしてきました。
喜多院は川越城の南端、富士見櫓(ふじみやぐら)のほぼ真南500メートル程先、徒歩10分程の所に位置します。現在川越城方面から喜多院へまっすぐと続く道は途絶えていますが、その中間地点の成田山川越別院というお寺から喜多院までは参道の雰囲気を残しています。
これは喜多院の北参道を北から撮った写真で、突き当りの森が喜多院です。両脇には飲食店などが並んでいます。JR川越スタート地点として、徒歩でこのルートを辿ることはできないこともありませんが、かなりの遠回りになります。バスやタクシーを使い、成田山川越別院まで行き、そこをスタート地点にするのが最良だと思います。
川越駅からバスで成田山前へ
千葉県成田空港の近くにある成田山新勝寺はその門前町とともに千葉県を代表する観光地の一つですが、その成田山の別院は日本各地にあります。その成田山が管理する最初の別院がこの成田山川越別院です。川越には寺院が非常にたくさんありますが、江戸時代にその代表する7つの寺院が七福神として選ばれました。その時選ばれたのが、喜多院とともに成田山川越別院です。
川越七福神を選定した慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)は徳川家康や第三代将軍徳川家光に仕えた仏教上の顧問のような存在です。つまり川越七福神は江戸幕府の公式の選定といってよい由緒正しいものであり、この成田山川越別院は喜多院観光の入り口として相応しいように思えます。
東武バスは川越市内にたくさんのバスを走らせていますが、その一つに小江戸名所めぐりバスというルートがあります。このバスは川越観光で大活躍するバスで、今後何度も紹介することになると思いますが、簡単にいうとJR川越駅前を始発として、川越市内の主な観光スポット付近のバス停を繋ぐルートです。JR川越駅を出発したバスの一つ目のバス停が「喜多院前」、その次のバス停が「成田山前」です。喜多院にただ行くだけであれば、当然バス停「喜多院前」が近いのですが、当サイトでは敢えて、一つ離れたバス停「成田山前」で下車することをおすすめします。
名称:成田山川越別院(なりたさんかわごえべついん)
住所:埼玉県川越市久保町9-2
宗派:真言宗智山派
川越七福神:恵比寿
東武バス小江戸名所めぐりバス時刻表
平日ダイヤ | ||
JR川越駅東口発(T1) | 喜多院前(T2) | 成田山前(T3) |
10:00 | 10:08 | 10:09 |
10:50 | 10:58 | 10:59 |
11:45 | 11:53 | 11:54 |
12:45 | 12:53 | 12:54 |
13:20 | 13:28 | 13:29 |
14:00 | 14:08 | 14:09 |
14:50 | 14:58 | 14:59 |
15:40 | 15:48 | 15:49 |
土・日・祝ダイヤ | ||
JR川越駅東口発(T1) | 喜多院前(T2) | 成田山前(T3) |
9:20 | 9:28 | 9:29 |
9:40 | 9:48 | 9:49 |
10:10 | 10:18 | 10:19 |
10:34 | 10:42 | 10:43 |
10:58 | 11:06 | 11:07 |
11:24 | 11:32 | 11:33 |
11:48 | 11:56 | 11:57 |
12:25 | 12:33 | 12:34 |
13:40 | 13:48 | 13:49 |
14:25 | 14:33 | 14:34 |
14:35 | 14:43 | 14:44 |
15:25 | 15:33 | 15:34 |
15:40 | 15:48 | 15:49 |
16:20 | 16:28 | 16:29 |
東武バス小江戸名所めぐりバスはJR川越駅の東口のバス停を出発点として、14か所のバス停を経由して再び出発点に戻る循環バスです。川越駅東口をT1としてT15まで各バス停に番号が割り振られています。喜多院前は2番目なのでT2、成田山前は三番目のバス停なのでT3という具合です。このT1からT15までを順に回るため反時計回りの巡回バスということになります。T11のバス停「札の辻」止まりのバスもわずかにありますが、札の辻から川越駅は他のバス路線があり、頻繁にバスが走ってますので心配は無用です。
喜多院前に行くバスルートとしては、東武バスの他にイーグルバスが「小江戸巡回バス」というバスを走らせています。ただ、イーグルバスの小江戸巡回バスは成田山前にはとまりませんし、2021年10月から当面の間、土日祝日のみの運行ですので、今回は紹介を見送ります。
喜多院前と成田山前の両バス停の間隔は350m、約徒歩5分程です。喜多院前で下車した場合、喜多院の表門である山門をくぐりすぐに境内へ入ることができます。ただ、遠方から電車とバスを乗り継ぎここまで来た人にとって、喜多院を見学して、またすぐ他の場所へ移動するのは少々物足りないように思います。
おすすめルートは以下の通りです。
成田山前バス停下車→成田山川越別院→川越歴史博物館→喜多院北参道→突き当りの喜多院入口前の小道を左折
→日枝神社→喜多院山門→喜多院です。
川越歴史博物館は通常の公共の博物館とは全く趣向の違う個人が経営する博物館です。武士、忍者などの武器や甲冑など個人で収集したものを展示しています。
名称:川越歴史博物館(かわごえれきしはくぶつかん)
住所:埼玉県川越市久保町11-8
営業時間:10:00~17;00
入館料:大人500円 小人(中学生以下):300円
喜多院北参道の店をいくつか紹介します。
名称:カフェシュガー
住所:埼玉県川越市久保町9-2
定休日:月曜日
営業時間:9時から17時(ランチは11:30から14:00)
座席数 15席
手作りパンやランチも提供する喫茶店
名称:寿庵 喜多院店(じゅあん きたいんてん)
住所:埼玉県川越市小仙波町1-2-11
定休日:水曜日
営業時間:11:30~17:00
抹茶そば、うなぎ、天ぷら、刺身等の定食やコース料理などがあります。川越の観光名所「時の鐘」をモチーフとした店舗デザインが特徴的です。
喜多院の北参道を突き当りまでくると喜多院の入り口があります。敢えてここから喜多院に入らず、左手の小道を喜多院の外周に沿って歩きます。
ここから左手の小道を進み突き当り前方には日枝神社があります。日枝神社といえば、東京都心の日枝神社の方が有名かもしれません。東京三大祭の山王祭の神社です。小さいながらも川越の日枝神社のほうが古く、川越の日枝神社から分祀してできたのが、東京の日枝神社です。
川越にある国指定重要文化財のほとんどが、喜多院とそれに隣接する仙波東照宮に集中しています。川越に古寺はたくさんありますが、喜多院・仙波東照宮以外で国指定重要文化財は、この川越日枝神社の本殿と宮殿のみです。
名称:川越日枝神社(かわごえひえじんじゃ)
住所:埼玉県川越市小仙波町1-4-1
銅板葺き三間社流造の本殿と板葺き宝刑造の宮殿が国指定の重要文化財に指定されています。
川越日枝神社の向かいにはバス停「喜多院前」があります。つまり、こうしてようやく喜多院の表門、山門に到着しました。喜多院の建造物の多くは、1638年川越の大火によって焼失し、その後当時の将軍家光の命によって再建されたものです。しかし、この喜多院山門だけは奇跡的に焼失を免れました。現在の喜多院で、この山門が最も古い建造物と言われています。
山門に入る前にひとつ見落としてはならないものがあります。この写真の右手には、慈眼大師天海の像があります。喜多院は西暦830年、平安時代に天台宗開祖最澄の弟子円仁によって創建され、その後戦乱などにより喜多院は荒廃しましたが、尊海という僧侶が再興し、天台宗の有名な僧、慈恵大師良源を祀るようになったといわれています。山門前に立つのは、円仁でもなく尊海でも慈恵大師でもなく、慈眼大師天海です。慈眼大師天海は16世紀前半に生まれ、108歳まで生きたといわれています。徳川将軍家の庇護を受け、絶大な力を持ちました。天海の進言により、喜多院は武蔵野国有数の寺院となったのです。
山門を潜ると周囲は高い木々に囲まれ、それまでの現代的な街並みと一変した別世界に来たような感覚に陥ります。江戸時代にここを訪れた人も、もしかしたらそのように感じたのかもしれません。そして、第三代将軍徳川家光もその一人だったかもしれません。家光は幾度となく鷹狩などで川越の地を訪れていました。
三代将軍家光は、江戸幕府が打ち立てられた翌年1604年に江戸城紅葉山の別殿で生まれました。6歳で人質で駿河に送られ、その後各地転々と戦乱の中を生きたきた祖父家康とは全く違う人生を送りました。幼い家光にとって、江戸城の中が世界の全てでした。記録として残っているわけではありませんが、川越城が初めての遠征先だったかもしれません。川越は江戸時代において、江戸から最も容易に行ける旅行先でもありました。江戸城から舟で隅田川を北上し、新河岸川を経由すれば半日で到着し、女性でも安心していける旅先として知られていました。
川越城の城主であり川越藩初代藩主の酒井忠利は家康の最も信頼する側近でもあり、徳川家の親戚筋でもあります。また家光の幼いころからの世話係のような存在でもありました。このような点から考えても、家光が少年時代から川越に何度も足を運んでいたと考えても不自然ではありません。
川越に来た将軍家は本陣ではなく、川越城本丸に滞在します。川越城本丸から喜多院は徒歩10分程の距離です。川越城に滞在した家光は、当然喜多院にも何度も足を運んだはずです。江戸城の中の世界しかしらない幼い家光は、この森の中に佇む神秘的な場所に初めて足を踏み入れた時何を思ったのでしょう。境内の中をかけまわったり、現代でも少年たちがするようにカブトムシ探しに熱中したのかもしれません。いずれにせよ、喜多院は家光にとって生涯の思い出の地であったことは間違いありません。
1632年父秀忠の死後、家光は国政に注力します。1633年福岡藩の黒田騒動、1635年には武家諸法度を改定し参勤交代制度を確立、そして対キリシタン対策など、つぎつぎと江戸幕府の基礎を作り上げていきます。そうした折、家光の耳に川越大火の一方が飛び込んできます。1638年3月、家光が34歳の時です。
1638年川越大火と喜多院
1638年の川越大火によって、喜多院は山門を残し、ほぼ全ての建物を焼失してしまいます。喜多院は家光にとって唯一といってよい、若かりし頃の思い出の旅行地です。その心痛は筆舌にしがたいものがあります。
家光はすぐさま喜多院の復興にとりかかります。1つの寺院の再建としてはあまりにも大がかりです。川越に物資を運ぶため、新河岸川の水運を強化することからはじまります。本堂である慈恵堂をはじめ、慈眼堂、日枝神社、多宝塔、仙波東照宮など現在残るほとんどの建造物を短期間で再建しました。それだけではなく、自身の生まれた江戸城紅葉山の別院までも、そのまま喜多院に運び込んだのです。この江戸城別院は現在でも、客殿、書院という名で喜多院に残り、更には客殿前の枝垂桜は家光自らがその時に植えたものだと言われています。
定説ではこのような家光の行動は、当時の喜多院の住職であり、徳川家代々に渡る顧問をつとめる慈眼大師天海に敬意を表したものと言われています。しかし、江戸城内にある生家を送るなど、この家光の尋常ではない再建への情熱は、それだけの理由とは思えないのです。その後も家光は政務を全うし、1650年、48歳の若さで亡くなります。
家光の死の7年後にあたる1657年、今度は江戸で明歴の大火という大火災がおきます。この大火により江戸城の天守閣を始めほとんどの建物が消失してしまいます。その結果、現存する喜多院の客殿と書院が、江戸城の遺構物としても最古の物となっています。
喜多院の中核施設:客殿と書院
川越の数多ある寺社の中で、なぜ喜多院なのか
川越の駅や観光施設などで「川越散策マップ」という無料の地図が配布されていますので、これを参考に旅行をする人が多いと思います。時の鐘、本丸御殿、蔵造の街並み、菓子屋横丁など定番といえる観光スポットが目立つように書かれています。それらの観光スポットのまわりに数多くの寺や神社があることに気づくでしょう。川越の観光エリアの中で、喜多院は外れにあります。それでも川越を代表する名刹は喜多院であるということは、古今問わず一致しています。
寺を造形物としてみた場合、喜多院の境内にある建物は、必ずしも優れているとは言えません。小説家の中里介山は、お隣の中院を「荘厳にして清楚」と絶賛しているのに対し、喜多院に対しては「ごみごみして汚れている」と酷評しています。もっともその後、昭和の大復興と呼ばれる大改装があったため、中里介山の見た喜多院の荒れ果てた姿は現在は当てはまりません。しかし、確かに境内や建物だけを見ると中院の洗練された美しさに比較すると、喜多院は質実剛健という印象を受けます。
喜多院の敷地面積は恐らく川越最大ではありますが、それには森林部分も含まれており、本堂など主要な建物がある境内部分だけを見ると、それほど広くはありません。全国各地の名刹と呼ばれる寺と比べると、こじんまりとした印象を受けるかもしれません。しかし、喜多院にはここでしか見られない重要な建物があります。それが前節でも触れた書院と客殿と呼ばれる建物です。
名称:喜多院庫裡(きたいんくり)客殿(きゃくでん)書院(しょいん)
住所:埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
営業日:通年無休(12/25-1/8、2/2-2-4、4/2-4/6、8/16、宝物特別展開催期間を除く)
営業時間:8:50~16:30(冬季は16:00まで、日祝は20分延長)
拝観料:大人400円、小人(小中学生)200円
※拝観料は庫裡・客殿・書院・五百羅漢すべて込
喜多院客殿と書院の案内図
喜多院の建物内は原則、撮影禁止です。館内から庭園など外部については撮影が許可されていますので、上の案内図と最低限の写真を使い説明したいと思います。写真11に見える奥の建物が庫裏(くり)と呼ばれる建物で、喜多院の事務所と受付があります。
出入口から入った先は土足厳禁です。銭湯にあるような下駄箱がありますので、脱いだ靴は下駄箱に入れてください。入って右手が下駄箱、左手が受付です。
写真15の左手の受付で拝観料を払います。ここで渡されるチケットは建物外にある五百羅漢に入場する際に必要ですので、無くさないようにしてください。ここをまっすぐ進むと「三代将軍家光誕生の間」のある客殿、右手に曲がると「春日局化粧の間」がある書院です。左手には渡り廊下があり、その先に本堂(慈恵堂)があります。あとは自由に見学できますが、一応巡回ルートが決まっているようです。写真12の案内図の矢印の通り、まずまっすぐ進み客殿の一番奥まで行き、戻ってきた後、書院、本堂という順に巡るようです。
写真16は案内図(写真12)のBの場所から撮影したものです。本堂と客殿に囲まれた場所は、関東有数の枯山水の日本庭園になっています。境内からこの庭園は見ることができず、拝観料を払い建物の中に入ってはじめて鑑賞できます。
写真17:庭園の春の紅葉
案内図(写真12)のCの部分まで通路は続いており、いずれも庭園を眺めることができます。春は新緑とともに、楓がうっすらと赤みを帯びます。これらが、11月下旬の紅葉シーズンには真っ赤に色づきます。通路脇の展示物も見落とせません。特に目を引くのが、徳川家光が幼少期に乗っていたという、高さ1mほどのおもちゃの木馬です。江戸時代初期というと、まだ戦国時代の物々しい雰囲気が残っていた時分ですが、家光の断片的な幼少期の幸せな記憶を結集させた理想郷が、ここ川越の喜多院だったのかもしれません。
Cから折り返して、客殿のDの位置に「家光誕生の間」があります。広さ12畳半で、豪華とは言えませんが天井を埋め尽くす彩色画は目を見張ります。家光誕生の間の隣、案内図のEの辺りには17畳ほどの広さの仏間があります。家光誕生の間も、仏間も観光客が足を踏み入れることはできず、外から眺めるだけです。県指定重要文化財の「木造天海座像」は境内にある小さな建物、慈眼堂に安置されているらしいのですが、客殿の仏間にそれらしき木造がありました。これはレプリカなのか、慈眼堂から一時的に移したのか、全くの別物なのか、撮影禁止のため写真も撮れず、今となってはわかりません。
名称:喜多院慈眼堂 きたいんじげんどう
住所:埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
入館不可
仏間の隣の部屋には24枚の「職人尽絵」と呼ばれる絵がかけられています。狩野派の絵師、狩野吉信の作品といわれており、これは国指定の重要文化財です。江戸時代中期以降、このような職人の姿をモチーフにした作品がいつくか制作されていますが、喜多院の職人尽絵がその先駆けの代表作品といえます。
客殿と書院は完全につながっており、一つの建物とみなすこともできますが、書院は江戸城紅葉山にあったときは春日局の居室として使われていたものでした。春日局は家光の乳母として、大奥を取り仕切り、絶大な権力を握った女性ですが、家光にとっては実母同様、あるいはそれ以上に慕っていた人でした。
書院を一巡りした後は、はじめに庫裏から入っていた方面に戻り、そのまままっすぐ突き進むと、明るい渡り廊下に出ます。
この廊下の突き当りを左へ曲がると喜多院の本堂へと出ます。本堂は慈恵大師良源を祀っており、慈恵堂とも呼ばれています。ここで天海以前の喜多院の歴史にも簡単に触れておきます。
名称:喜多院慈恵堂 きたいんじえどう
住所:埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
埼玉県指定重要文化財
喜多院の本堂にあたる建物で、銅版葺入母屋造。慈恵大師良源を祀っており、別名大師堂、潮音殿とも呼ばれています。堂内には鎌倉時代に作られた銅鐘があり、この鐘は国指定重要文化財です。
喜多院の歴史と円仁・良源
慈覚大師円仁が武蔵国の寺として
喜多院は平安時代の天長七年(830年)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって創建され、無量寿寺(むりょうじゅじ)と名付けられました。円仁は794年栃木県で生まれ、15歳で比叡山延暦寺に入山し、天台宗の開祖最澄に師事します。当時の栃木から滋賀・京都へ向かうルートは東山道と呼ばれ、関西と関東を繋ぐメインルートでした。最大のライバルであった空海の真言宗に対抗するため、最澄は東国への布教活動を重視し、東国出身であり才気あふれる若かりし円仁を連れ、東山道を往復しました。東山道は岐阜県・長野県・群馬県を経由し、栃木県、東北地方へと続く道ですが、群馬県の南にあり、人口の多い武藏国は当然無視できない存在です。822年、円仁の師、最澄は他界しますが、円仁の地元関東地方への布教の情熱は衰えることはありませんでした。円仁が関東・東北に開基したといわれている寺は非常に多数あります。そのほとんどは850年から860年代の間ですが、820年代後半から830年代前半にも多くの寺を建てています。なぜ、その中間の830年代半ばから840年代が抜けているかというと、その期間、円仁は遣唐使として中国に渡っていたからです。それらの寺の創建年が正しいとすれば、円仁は東山道を何度も往復していたことになります。
さいたま市岩槻区の慈恩寺は824年、山形県の宝光院は826年、栃木県の連祥院は827年、宮城県松島の瑞巌寺は828年、埼玉県神川町の普照寺は833年頃と次から次へと開山していることになります。これら全ての縁起が真実かどうかはわかりませんが、東北地方まで足を延ばしているのは事実のようですし、円仁の実家である栃木県と京都の間を無数に往復していたのも事実でしょう。いずれにせよ、関東、東北における慈覚大師円仁の名声は絶大なものでした。
830年に円仁によって創建されたという埼玉県川越市にある喜多院、当時の無量寿寺ですが、この地を円仁が選んだことにはある程度説得力を持ちます。師である最澄の後を引き継ぎ東国布教を目指す円仁にとって、川越の地は絶好の場所だからです。東山道は群馬県から直接栃木県へと続く道ですが、群馬県から武蔵国の国府へと分岐する東山道武蔵路(とうせんどうむさしみち)という支道があり、川越にはそのちょうど中間地点にあたる駅があり、人々の往来が多く、賑わっていた町だからです。無量寿というのは、無限の命を持つ阿弥陀如来から来た言葉であり、無量寿経は当時から主要な経典でした。
埼玉県では、13世紀頃より青石塔婆(あおいしとうば)と呼ばれる板碑が突如として現れ流行します。板碑自体は全国各地で見られますが、埼玉県が質量ともに圧倒しています。埼玉県の青石塔婆には、サンスクリット文字(梵字)が刻まれているのが特徴ですが、その多くは阿弥陀如来を意味する文字が刻まれています。円仁は836年、遣唐使として福岡から唐を目指します。何度かの失敗の後、838年ついに唐にたどり着き、そこから約10年間中国の地で学び続けます。師、最澄も成しえなかった天台宗の完成とともに、サンスクリット語も学び日本に持ち込みます。円仁の時代には、まだ青石塔婆は存在しませんでしたが、円仁がその後東国で伝えた教えが、美しい青石塔婆となって結実したということもできます。